「原発事故はなぜくりかえす のか」 高木仁三郎 著
 から とりとめもなく 抜書き
 

(仕事で行き詰ったときに私 は 高木さんの「ことば」を読み返していま す)


・技術屋は技術の発想からすれば、我が国のポリシーはそもそもどうなっていて、というようなところから発想するのではなくて、技術としてはこうあるべきだというところから発想すればいいのです。それが普通だと思います。 まず国があって初めて自分があるというところからきているのでしょうか。

 

・結局、自分があるようでいて、実はないのです から、自分の責任を自覚することになかなかなっていかないのです。  日本という国の少なくとも明治以来の富国強兵 の技術の発達史の中で現れてきていることではないかという気がしてなりません。

 

・それほど大きくはないけれども、ちょっとしたトラブルや故障が案外多く起っていて、それはこの種の無神経な扱い方に関係していると思うのです。そういう点では「いろはのい」みたいな出発点をきちんとわきまえて、それを行動ルールとして身につけている人が意外に少ないのです。

 

・古い時代だからこそ、そういう手でやる実験というのが今にして思えば意味を持った時代であったとも言えます。そのころ手ではできなかったことも、今はコ ンピューター・シミュレーションですべて済んでしまうように思っているかもしれませんが、しかしそうではないということをこれから私は言いたいのです。

 

・計算上や理論上だけで放射能を扱うよりは、実際に物として放射能を手で扱ってみればはるかに厳しい世界が見えてくるということです。

 

・「公」というのは、公的機関、たとえば政府や各種の行政機関、あるいは公人をいう言葉が意味するような役職を持った「公」のことを指して言っているわけではなく、英語でパブリックということです。要するに、個人を超えたある種の普遍性のことです。そういう「公」の意識がどこにあるのか、ないのか、そして、結論的に言ってしまえば、その普遍的な意識の欠落が、お粗末な事故を生んでいる根本の原因になっているのではないかということを考えるわけです。

 

・どうしても科学は単に個人の好奇心というようなことではとどまらない。科学から好奇心を失ってはいけないと思いますが、単に個人の好奇心から科学を「やっていればいいということにはなりません。

 

・パブリック・インスタンスという言葉があります。公益です。公益とは何なのかが企業や組織の枠を離れていつも個人に問はれるのが、技術というものではないでしょうか?それが科学や技術が持っている本来的な普遍性ではないかと私は思います。

 

・客観性というものを数字や実証性によって組み 立てることができるからこそ、科学や技術というものが成立するのであり、科学者や技術者はその客観性ということにもっとこだわらなくてはいけない。 そのことを公共性と言いかえてもよいでしょう。

 

・会社の中で生きていこうとすれば、私企業の利益と公共性との間にどのようにして折り合いをつけるのか、いつも緊張感のある努力をしていく必要があります。 自分のアイデンチィティーがなぜ見えないのかというと、自分のやっていることの公的な性格や普遍的な意味、少々大げさな言葉で言えば地球の未来に自分がどうつながっているかというようなことが見えなくなってきてしまっているからです。だから理科の教育はつまらないと言われて、理科離れが起るわけで。そこのところをいくらコンピューター技術を使っていろいろと目先を変えてみたところで、本当の意味での面白さは理解できませ ん。  

・自分が公共的に社会につながっているという、そういう意味での自分のかけがえのなさのようなものが出てこないからおもしろくないのです。  では、本来技術というのは、そのような「私」の部分を越えたものなのかというと、そうではありません。技術というのは非常に普遍性をもっていますが、なおかつその普遍性の中に「私」というものがなんらかの形で存在することが重要なのではないかというように思うのでうす。

・原子力の名において技術者の主体性がそがれるようなプロセスがあるのです。末端の手作業をやっている技術者の中には、まだ主体的に考えようとする伝統が 残っていて、実際に自分の手で何かをやるというときには、一つひとつのことが気になるものです。

 

・人々が求めるものは何かというところから出発するのではなく、国家の法律の中にどう定義されているか、それを守る機関は どういう組織であるのかから出発して、その組織に従うことが公益であるみたいな、頭からの公益論ができてしまっている。これでは文化も教育もあったもので はありません。

 

・アカウンタビリチィーというのは、むしろレスポンシビリチィー、責任という言葉に近い語感をもった言葉です。ですから説明ということに力点があるのではなく、責任 ということに力点があります。筋道がはっきりつくような形で説明する。これがアカウンタビリティーだと思います。虚偽報告というのは、非常に意図的な、隠蔽よりも次元の進んだ悪質行為なのです。

 技術者にとっては、観測した数値は絶対のものなのです。 ですから、改竄が行われるようになってきたということは、それによって安全性が損なわれるというレベルのことにとどまらずそれ以前に技術者の基本的な倫理というものが問われる、もっと根本的な問題です。

 

・手で実験してデーターを取って、そのデーターをまた手で書き直すというような場合だと、おそらく大きな抵抗感を感じるでしょうけれどもコンピューターの上でデーターを移しただけでは、それほど倫理的 な抵抗感はなしに、わりと簡単にできてしまうかもしれません。

 

・技術時代の技術者の倫理綱領のようなものを今ここで確立しておかないと、今後の技術の将来は危ういのではないか?  安全第一という前に、その安全とは何なのかをまず問うべきです。 私の持論に戻りますけれども、技術というものが本来持っていなくてはならない公的な性格に立ちかえり、安全はその中に当然に含まれている、そういう視点からシステムとしても個人としても出発してほし いものです。

 

・安全というのは、そのようにことさらに考えるべきことではありません。ことさらにとらえたときには、技術の中に本来内蔵しているものであるといは考えら れなくなってくるのではないかと思います。一つの技術があると、それにいろいろな安全の手立てを講じる。講じる度合いによって安全に対する打ち込み方、安全文化が違ってくる。今はそういう考え方になっていて、安全第一というのは、非常に大きな手立てを講じることなのだと思われているのです。

 

・ あらゆる場合に、自然の法則やおのずと働いているさまざまな原理によって、人為的介入がなくても、事故がおさまるような システム、これを基本に置いた設計がなされるべきでしょう。重力によって水が高いところから低いところに流れるとか、熱も高いところから低いところに伝わ るとか、そういった自然法則に十分に依拠したようなシステム、これを私はある人の考えを借りてパッシビズムの技術と呼んでいますけれども、それならばうま くいくかもしれません。  いま我われをとりまいている安全への懸念は、パッシビズムの方向に解消していくのではないでしょうか。 

 

・現代技術の非武装化  多少作業効率を落としてもいいから、もう少しパッシブで平和的で、大きな破綻や事故を招かないですむようなシステムを取り入れていく方向に技術というものを考えて 行くことが、本当に安全文化を考えることになるのではないでしょうか。

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